出逢いを学びに。人と場に文化が創られる

出逢いを学びに。人と場に文化が創られる

取材:柴田涼平 文/写真:三川璃子


ーーあなたが未来に残したいものは?

 「試行錯誤」と「挑戦する心」

そう答えてくれたのは、株式会社FoundingBase 代表取締役CCO林 賢司さん。

FoundingBaseは「自由」をUpdateすることをテーマに地方共創を目指し、事業を展開している会社です。北海道、島根、大分など全国各地に拠点を構え、コミュニティや教育、地方プロモーションなどあらゆる面で地域活性化に取り組んでいます。

今回は、林さんが運営する北海道安平町「ENTRANCE」というコミュニティスペースにて取材させていただきました。

ENTRANCEとは
小さな子どもから大人まで、幅広い世代が自由に使えるコミュニティスペース。自然に生まれる交流から、未来が創造できる場。

「試行錯誤」とは、失敗を重ねながらゴールへ向かって進むこと。
「挑戦」とは、困難な事柄に果敢に挑むこと。

林さんはなぜ未来に「試行錯誤」と「挑戦する心」を残したいのでしょうか?失敗は誰しもしたくないものです。失敗を恐れて足がすくんでしまう。そんな経験もあるのではないでしょうか?

林さんの現在→過去→未来をたどり、少しずつ紐解いていきます。

現在 〜「希望」を可視化する〜

「開けつづけることで、場にエネルギーが溜まっていく」

安平町コミュニティスペースENTRANCEの運営について、コミュニティの重要性、場として目指すあり方を伺います。

ーーENTRANCEはどんな場所ですか?

すぐ裏にあるJR駅の待合に使ったり、子どもたちの遊び場になったり、町のちょっとした会議、ご近所さんの赤ちゃんを預かったり、世代関係なく色んな人に使ってもらえる場所になってるかな。

安平町ENTRANCEに飾られた復興パネル

ここは元々、北海道胆振東部地震がきっかけでできた場所。安平町の住宅の9割が損害を受けるほどの大きな影響を受けました。想像以上にぐちゃぐちゃになってたんですよ。僕も安平町には地域おこし企業人※として来る予定だったんですが、予定より早めに手伝いに来ました。

(※地域おこし企業人とは、民間企業に属しながら地域に入って活動する制度。現在「地域活性企業人」に呼び名が変更。自治体と企業が共にプロジェクトを進め、新たな共通価値を見出すことを目的としている。)

災害ボランティアセンターは立ち上がっていましたが、町に活気を戻すという意味で新たに一般社団法人安平町復興ボランティアセンターという団体を立ち上げて、町民のサポートをしてました。当時は、町民から救援依頼を受けて、地震で崩れてしまった家の掃除をしに行ったり、サポートしに行く形。ボランティアさんが労力として助ける側、町民が受益者という関係性に近い感じだったと思う。

でも今、復興ボランティアセンターから名前も変わり「ENTRANCE」としてこの場を開けることで少しずつ形が変わっていってるなあって感じてます。

安平町ENTRANCE様子

ーーどのように場が変化していったのでしょう?

ENTRANCEという場が開いていることで、たくさんの色がどんどん上塗りされて重なっている感じ。僕たちが場を作っているんじゃなくて、町民のみんながここで何かしてくれることで場が成り立っている。

例えば、ここで遊ぶ小学生の子たちがENTRANCEのコミュニティの一員として、ENTRANCEにいる大人たちの自己紹介ボードを作ってくれたり。高校生もENTRANCEの周りの雪かきを手伝ってくれたりとか。

場にエネルギーが溜まっていって、こういうことしよう、ああゆうことしようってやってくれる人が少しずつ増えている。平日の9時〜18時は空いてるし、いけば誰かがいて、自分のしたいことができて、ちょっと誰かと話しができる。そんな場になっていってると思うんです。

ーー林さんにとって「エネルギー」とは何なのでしょう?
ENTRANCEを開け続けることへのこだわりとは?

僕の思うエネルギーは「希望」ですかね。おもしろい場所っていうのは何か可能性を感じるものだったりワクワクすること。あそこに行ったら何かあるかもみたいな。希望が可視化されてる場所になればいいなと思ってます。

取材風景1

開け続けることへのこだわりは、場があることで着想されるものがあると思うからですかね。家や学校にいるだけじゃ感じない、ひらめきややる気みたいなもの。そういう場所がこの町にあることが、希望の象徴だなと。

変わったものをアピールしていこうってわけじゃなくて、常に創造的破壊をしながらその時その時代にあった形としての場所をつくる。希望、エネルギーがたまっていく場所を提供できるように仕掛けをしながら、これからもENTRANCEを開き続けたいですね。

過去 〜問い×気づきが蓄積し発酵する〜

「子どもたちが作ってくれた紹介ボードでは、僕はENTRANCEのボスになりました」と笑いながら話す林さん。子どもたちにも愛されているその姿が容易に想像できます。

地域に自ら飛び込み、「希望」を生み出す場をつくる。周りに意識を向け、愛溢れる林さんはどのように形成されていったのでしょう。過去に遡り話を伺います。

社会をよくする「愛」を持つ、幼少時代

林さん幼少期の写真
林さんの幼少期(写真提供:林さん)

ーー林さんはどちらの出身ですか?

僕は東京の江戸川区出身。実は親父が台湾人でハーフなんです。おふくろは日本人だけどキリスト教徒で信心深い人。そんな二人から生まれたのが僕。親父は台湾人だけどもう日本語はペラっペラ。彼が、3、4歳のときに台湾から日本に来てるのでなんの違和感もなくて。だから僕も11歳まで自分がハーフであることを知らなかったんですよ。もしかしたら学校でいじめられちゃうかもしれないってことで隠してくれてたみたいです。

ーー突然ご両親からハーフであることをカミングアウトされたんですね。

ハーフであることは当時嬉しかったんだよね。昔から楽観的だったから、「イェーイ!なんで早く言ってくれなかったんだ!もっと早く言ってくれよ〜」って笑 そんな反応だったから多分親もびっくりしてただろうね。

うちの母も、なかなかハードな人生を送ってきた人で。めっちゃ明るいし友達もすごく多い人なんだけど、もともといろんなことに対して思考してきた人なんだと思う。だからか、キリスト教の教えを大事にしていて。「人間は社会をよくするためにいる。だから、自分の良さを使って人のために何かいいことをしなさい」ってよく教えられてきました。昔から人のために生きれる人にっていうのは染み付いてるかもしれません。

小2のクリスマスイヴにその教えをもろに受ける衝撃的な出来事があって。12月24日に新宿駅を通ったんですよね。そしたら当時はめちゃくちゃホームレスの方がいて。ちょっと怖いなぁって思ってたら、母がコンビニでお金を全部千円札にくずして、配り始めたんです。

取材風景2

ーーホームレスにお金を配り始めたんですか!

一枚一枚、ホームレスの紙袋に手を突っ込んで入れ始めたんです。そしたら「あんたたちも入れなさい」って言われて。

子どもですよ?300円くらいしか持ってないし「子どもだから、配れない。クリスマスだから俺がもらう日だ」って言ったら、「クリスマスは子どもとか関係なく、みんながもらう日なんだ」って言われました。結局見知らぬ怖い人たちに、なけなしのお金を恐る恐る渡して帰りましたね。

ーー小学生ですごい経験ですね。

その後の学生生活ではどんな影響を受けたりしましたか?

その後もキリスト教の中学校に通い、高校は横浜の公立高校に入りました。高校のベルギー留学は今でも影響を受けてるなと感じますかね。

取材風景3

ーーどういうきっかけで留学することになったんですか?

兄貴がメキシコ留学していて、近況報告で送ってきたエアメールに水着の女の子と肩組んで写っている写真が入っていたんです。「海外なら女の子と肩組めるんだ!海外いいな!」と単純に思いました笑 なんか、すごく羨ましかったんですよね笑

あと、留学先にヨーロッパ圏を選んだのは、小さい時からマリア様の置き物とかが家にたくさんあったから。なんとなく馴染みがあったんですよね。世界史とかの資料を見て、石造りの建物にも憧れがあって、1年間ベルギーに行くことにしました。

留学中、友達もできたし、しっかり勉強してとても充実してました。でも、日本にいる時の自分ではない、何かもろい部分に直面したのを覚えてます。海外になると自分がゼロになる感覚。今まで何かと器用にやってきたけど、こっちではその器用さが通じない。意識しない自分の癖だったり思い込みを認識することになりましたね。

ーー海外で直面した出来事として、どんなことがありましたか?

学校で教員に差別されることがありました。僕が通ってたベルギーの学校はオランダ語がメインで、友達とは英語でコミュニケーション取れてたんだけど、先生はオランダ語で話してくるから何もわからなくて。

ある時、みんなが受ける数学のテストがあって。自分はどうすればいいかわからずその場に座ってたんです。そしたら「ここにいてもしょうがないだろ、バカな日本人だ」ってオランダ語でボソッと言われて。オランダ語はわからないけど、悪い言葉って何となくわかった。多分ちょっとからかっただけなんだろうけどすごいむかっとしたね。

林さん留学時の写真
留学時の写真(写真提供:林さん)

でも自分は台湾人の血もあって、ハーフなんだって自分も国籍で区別しているところがあるって気づいたんだよね。そこから、日本人とは何かっていうところが気になる要素になってきたかもしれない。

海外で「日本ってどんなところ?」「日本の政治は?」って聞かれても答えられなかった。それだけ自分は日本のことを何も知らないんだと気づかされましたね。

取材風景4

自分の中に「文化」をつくる学生時代

幼少期から「社会によいこと」を自然と意識し、海外に飛び出したことで差別を受けるなどリアルな「社会」を肌で感じることに。その後の大学での学びも林さんに大きな影響を与えます。

ベルギーから帰国後は、慶応義塾大学湘南藤沢キャンパス(以下SFC)を目指すことに。SFCを目指すならってことで兄が学外活動で出会ったSFCの人を紹介してくれたんですけど、会って志望理由を話したら、いきなり笑顔でボコボコに厳しいことを言われました。

取材風景5

ーー笑顔で厳しいことを?なんて言われたんですか?

「SFCに来ない方がいい。君が来るくらいなら、他の子を入れさせてあげたい」って。薄っぺらい考えで来るなって言われました。そこからまた自分なりにめちゃくちゃ思考したね。自分のしたいこと、何でそれがしたいのかとか。もっと考えなきゃと思いました。結局無事に大学は合格。入学初日に真っ先にその先輩に入ったことを報告しに行きました。

ーー思い切り言葉で殴られたのに、またその人に会いに行ったんですね。

厳しく言われた時、この人は愛のある人だって瞬時にわかったからね。自分でも納得するところがあったし、自分の「思考」を叱ってくれる人だと思ったね。出会いや教えはインプットして自分の器になると思うんです。強烈な体験が自分の中で発酵して、誰かのために出した時、それがまた誰かのインプットになるよね。今まさにインタビューで話しているこの時も、もしかしたら誰かのインプット材料になるかも。人の中に文化があって、出し合い、引き合いで両者が成長するっていう感覚があるから人の言葉を大事にしてる。

取材風景6

ーーそれぞれが蓄積したものを対話を通して引き出す。対話って面白いですね。

大学入学後はどんなことを学んだのですか?

学部は総合政策学部で、コミュニティ論や人種差別などの社会問題解決、日本人論を学びました。これはやっぱりベルギー留学が背景にありますね。日本人論に影響されて、当時は下駄で歩いたり、林業からエコに興味を持ち始めてマイ箸を布教しようとしてました。笑

1年生の時に入っていた学生団体では、「食料自給率を100%に」っていうテーマで大型のイベントの主催もしました。

ーー食料自給率を100%に!そのイベント、面白そうです!

山梨に新しくできた国立公園を2週間貸し切って行ったんです。目標は10万人。でも実際来たのは2万人くらいでしたね。

いや、何よりショックだったのは、食料自給率をテーマにしたイベントなのにお肉を大量廃棄したことでした。イベント終了時に借りていた冷凍庫を返さなくちゃいけなくて。中のお肉は全部真夏の外に置かれることに。ものの10分で腐敗臭がし始めてハエが集り始めました。廃棄されるお肉が軽トラに積まれているのを見て、「俺は何のためにやってるんだろう」って情けない気持ちでいっぱいになりました。

自分のやっていたことが偽善っぽく感じたり、もうめっちゃ悩みましたね。結局学生団体も抜けました。大学1年で挫折を味わうことになるとはね。

取材風景7

ーーその失敗はどのように乗り越えたんでしょう?

「考えは借りられないけど、『考え方』には何か型があるんじゃないか」って、東大の哲学教授の言葉を受けたことがきっかけでした。やっぱり自分はちゃんと考えられてなかったんだと思って「考え方」に興味を持ち始めたんです。そこで、人の考えを聞くのに何が最適だろうって考えて、フリーペーパーを作ることに。図書館で面白い人を見つけたら速攻で連絡して取材しに行く。インプットを止めず「本質」や「情報の価値」について思考しましたね。

地方との出会い。地方の「豊かさ」とは何か

出会いと失敗を学びに変え、試行錯誤を繰り返してきた大学時代。現在の仕事につながる「地方」との出会いも大学時代のある出来事がきっかけでした。

フリーペーパー作成と同時に友人とデザインユニットを組んで、WEBサイトを作ったりしてました。大学3年の時、昔在籍してた学生団体の先輩から「福島県会津市の食材を使ったイベントをやりたいんだけど、広報部分を手伝ってくれないか?」って声をかけられて仕事の依頼を受けることに。そこが僕が地方に関わる始まりですね。

ーーどんな印象的な出来事があって、地方の魅力に引き込まれていったのでしょう?

現地で有名な会津本郷焼の陶芸家の先生に出会ったのが大きなきっかけです。先生のつくる器や考えから、日本の思想の美しさを知りました。でも、この伝統ある会津本郷焼を本格的に作っているのは、今はもう先生一人だけ。地方で生計を立て、歴史や伝統を残していくことが大変だという地域の課題も同時に知りました。もっと地方で活躍する人の思いや魅力をPRできないかという思いが湧き出ました。

若者にももっと地域を知ってほしいという思いで、地域体験ツアーを組んで東京から30人ほど会津市に連れて行ったり。そこからは気づけばずっと地方に関わることをしてますね。

取材風景8

ーー福島のプロジェクト後はどのような活動をされたんですか?

福島のツアー報告会のご縁で、次は長野県白馬村の民宿再生事業に関わることになりました。そこで出会った当時の白馬村の観光局長が僕の師匠。「仕事」とは何か。物事の捉え方を厳しく教えてもらいましたね。「一つの物事を良くすると一方で悪い影響を受けてしまうものがある」だから、民宿の照明一つ変えるにしても「何が変わって何が良くなるのか?」と問われます。「なぜ」という問いを常に持ってプロジェクトを進めることで、思考力がさらに身についた気がします。

戦略的な広告を出したり、提供する料理を変えてターゲットを変えることで、モデルケースとなった民宿の売上は約3倍ほど伸びました。お客さんにもとても喜ばれ、満足していましたが、良い評価ばかりではありませんでした。同じ白馬村の観光業者の方々から「なぜ民宿の再生に肩入れをするのか」という指摘が相次いだんです。もちろん明確な戦略は引いてあって、民宿再生の次はホテルやペンション、山小屋の取り組みを行っていくという計画になっていたのですが、なかなか理解が得られず。結局師匠が辞めることになったので、僕も辞めることにしました。

取材風景9

この白馬村のプロジェクトは大学卒業後も続いていたものだったので、気づけば就職せずに僕は個人事業主として活動していました。でも、白馬村から予算も出なくなり、これからどうすればいいか悩みましたね。でも地域の仕事はやりたい、地域に貢献したいという思いは変わらずにあって。そこで出会ったのがアショカジャパン。社会起業家の団体で、世界で一番大きな団体です。アショカはスタッフ採用に変わったルールがあって、イノベーターであり、チャレンジャーであり続けなければいけないとのこと。だから僕も堂々とアショカの仕事とは別に地域の取り組みを続けることができました。アショカジャパンに入ったのとほぼタイミングで、今の共同代表の佐々木に出会いました。

ーーFoundingBaseの始まりですね。

佐々木に出会ったのは、知人に誘われて参加した飲み会がきっかけです。そのまたご縁で島根県津和野町の役場職員の方とつながって「地方で事業をやろう!」という流れに。のちにFoundingBaseとなるInnovation For Japanを立ち上げます。実際に津和野町に若者が入り、いろんな取り組みをしていました。

僕はアショカもあったので遠方から津和野のサポートをしていたんですが、少しずつ現地で課題も出てきたので、アショカを辞めて自分も移住することに。移住した2014年にFoundingBaseを設立しました。

移住して、地元の人と楽しくやらせてもらってたんですが、特に上の世代の方々と考え方の違いを感じることは多くありました。また僕はどこまで行ってもよそ者にしかなれないと感じたりもして。飲み屋でふと「よそ者っぽく金髪にしようかな〜」って言ったら、いいじゃんいいじゃん!ってそそのかされて次の日には髪も眉毛も金髪にしてました。笑

株式会社FoundingBase創業当時の写真
(写真提供:林さん)

ーー現在のFoundingBaseになるまで、どのような変化がありましたか?

今は地方10拠点以上構えて活動しているFoundingBaseですが、2014年の設立から2018年まではかなり模索していました。充実はしていたけど、自転車操業という感じ。問題が起こったらその都度火を消して耐える。社会性と経済性のバランスをとるのが難しくて悩んだことがありましたね。

会社を大きくするには経済性が必要。でも稼ぐことばかりに目を向けても社会はよくならない。じゃあ社会性を高めるとどうなるのか?などいろいろ試行錯誤しました。

取材風景9

まちづくりにおいても、近くにいい商業施設を建てるだけでは意味がない。個人が今の状況を豊かだと思うにはコミュニティが重要。ただコミュニティの価値って数字で表せないから難しい。

例えば、ENTRANCEでこの間やったラーメンイベントなんて、売上はあったけど利益は全然出てない。吉田さん(主催者)が一ヶ月ぐらい前からスープを仕込んだり、準備した工数を含めると全く利益に見合ってないんですよね。でも、参加してくれた人が「美味しかったよ」とかお花を持ってきてくれるとか、そういうつながりが見えるのがコミュニティの良さ。それが僕たちが事業をやる意味と価値になってくる。

これからFoundingBaseのプレイヤーもどんどん変わっていくでしょう。だからこそ事業に属人性を持たせないようにしています。誰かがいなくなることで、今ある100%の力はもちろんなくなります。でも70%まで下がるのか30%まで下がるのかは調整できるはず。文化として積み重ね、仕組み化を図ることで凹みを小さくしていきたいですね。

取材風景10

僕のやっていることは100年後には9割なくなります。どんどんバトンタッチして変化していくから。この場所やFoundingBaseが残り続けたとしても、「立ち上げた時に林ってやつがいたらしい」で終わるでしょう。どういう思想の人間かまではわからない。でも、伝統は残ってほしい。周年記念はラーメンを一緒に食べるとかそんなことでもいい。同時に少しでも、そこにある背景や考えが伝わってくれたら嬉しいよね。

非言語で語られるものを創るのが僕たちの仕事であり、今後僕らが頑張っていく理由ですね。

あなたが未来に残したいものは?

ーー最後に、林さんが未来に残したいものは何ですか?

試行錯誤と挑戦する心。

行く先が全くわからないまま、僕はここに流れ着きました。もしかしたら他の人生もあったかもしれない。でも本当に多くの方に支えられたこと、そして自分が動きつづけたから、ここにいるんだと思っている。

自分の過去の挑戦や試行錯誤には感謝している。過去の積み重ねが、今の自分を導いていると思います。

これから僕がどこに行くかわからない未来でも、会社のため、家族のため、社会のためを大事にしながら、僕らしく試行錯誤と挑戦を重ねていきます。


《林 賢司(はやし けんじ)》
株式会社FoundingBase 代表取締役CCO
安平町コミュニティスペース ENTRANCE

  • -
    コピー

この記事を書いた人

三川 璃子

「拝啓、未来」編集長
想いをていねいに綴る。その人の“ありのまま”の言葉を大事にしています。