取材:柴田涼平 文:三川璃子 写真:小林大起
ーーあなたが未来に残したいものは?
「世代間を超えてコミュニケーションができる、この場所」
そう答えてくれたのは、NPO法人雨煙別学校の職員を担う西脇宏伸(にしわきひろのぶ)さんです。
今回は、懐かしい木の匂いを感じる雨煙別小学校・コカコーラ環境ハウスの教室で取材させていただきました。

雨煙別小学校コカ•コーラ環境ハウスとは北海道栗山町の廃校を「泊まれる小学校」として再生した場所。自然体験を活かした教育プログラムの構築や推進事業や国際交流事業など、世代を超えて地域活性化を目指す場となっています。
西脇さんの残したい場所とは、どんな場所なのか?
小さな机と椅子に座って語らいながら、西脇さんの現在→過去→未来をたどります。
現在 〜機会を与える存在に〜
真っ白な雪の中に、赤が映える雨煙別小学校コカ・コーラ環境ハウス。中に入った瞬間タイムスリップしたような感覚に。レトロでポップな色合いの空間に大人心がくすぐられます。

西脇さんが残したい場所、「雨煙別小学校コカ・コーラ環境ハウス」の背景や現在の西脇さんの活動についてうかがいます。
西脇:この施設、実は道内最古の木造二階建ての校舎なんです。昭和11年に建設され、平成10年に閉校。その後、教育や環境活動を積極的に行っている公益財団法人コカ・コーラ教育・環境財団さんから支援を受け、栗山町と連携して改修工事をすることになりました。平成20年に改修を終え、現在は宿泊施設、社会・環境教育の場として運営しています。
ーー西脇さんはいつからここで働いているのでしょうか?
西脇:僕はもともと地域おこし協力隊として、栗山町に来ました。主に協力隊としての3年間は、NPO法人雨煙別学校の体験活動の支援と、栗山町の「ふるさと教育」※の推進。退任後の2018年から、ここのNPOの職員として働いています。
(※栗山町ふるさと教育:国蝶オオムラサキ生息の国内北東限となる発見を機に「人と自然が共生するまちづくり」がすすめられた栗山町。身近な自然と直接触れあいながら、環境に対する理解を深め、成長していくことを目的としている教育プログラム)

栗山町に来た当初は、子どもたちと一緒に森や川に行って自然体験活動をメインにやってました。とにかく子どもたちと外に出て、出会う植物や生き物の説明をしたりとか。ただ、当時はNPO法人のみなさんのサポート役として来ていたので、表立って先導することはあまりありませんでした。その分、中に入って子どもたちと近い距離で接していましたね。
ーー子どもと触れ合う中で意識していることはありますか?
授業の一環で行くので、自然に興味のない子たちもいます。僕はそういう子がいてもいいと思うんです。一つの選択だし、その子の個性。でも、興味を持たせる「チャンス」は作ってあげたいと思っていて。せっかくの機会を失わないように「これはどう?」っていろんな見せ方をしました。いかに惹きつけるかっていうのを意識してやってましたね。

ーー子どもたちに機会を与えるっていいですね。
雨煙別小学校コカ・コーラハウスが、子どもたちの選択肢を増やす場所というイメージがわきました。
西脇:地域おこし協力隊として、こうしたプログラムを進めていく中で、学校教育と社会教育が融合して良い科学反応が起きると感じました。自然教育もそうですけど、いろんな要素が混じり合うことが、子どもたちにとってもハッピーな環境になると思います。
そういう考えから、より広い分野としての「教育」を探求するために地域おこし協力隊退任後もNPO法人雨煙別学校の職員として働いています。
過去 〜「教育」に目覚めるまで〜
「教育」や「子ども」というキーワードを持って活動する西脇さん。自身のキーワードはどこで生まれたのでしょう。西脇さんの過去を遡って紐解いていきましょう。
サードプレイスが自分を創る
「僕、足も速くて声も大きいから、昔はクラスの人気者だったんです笑」

西脇さんの語りに終始笑わされていた取材陣。みんなからの愛称は「わっきー」。親しみやすい雰囲気を持つ西脇さんも人見知りの時期はあったそう。クラスの人気者になるまで、どんな出来事があったのでしょうか。
ーー西脇さんはどんな子どもだったんですか?
西脇:小学生の時からクラスの中心にいる人気者でした。小学生って足速い子がモテるとかあるじゃないですか。それが僕です笑 気づいたらグループのリーダーになってたり。小学生から高校くらいまで、ずっとお調子者だった気がします。小学6年生の時にステージの真ん中でマツケンサンバを踊ったのは今でも忘れないですね。周りにおだてられてセンターになったんですけど、自分を見てみんなが笑ってくれるのが嬉しかったです。

ーーいや〜面白いですね。笑
リーダー的存在だったとのことですが、今振り返ってみて、自分はどんなリーダー像だったと思いますか?他を巻き込んで突っ走っていくタイプだったり、周りを気にかけるタイプだったりってあると思うんですが。
西脇:もともと自分で手をあげるタイプのリーダーではなかったですね。みんなに「やれよ〜!」って言われてやるタイプ。「やる人がいないなら、やるか」くらいな感じ。
ーー「誰もやりたくないのかな?」って割と気を使ってやっていたとか?
西脇:あ〜そうですね。変に周りに気を使っていたとは思います。学校って、それぞれ性格に合わせて仲良しグループが分かれるじゃないですか。お調子者と落ち着いたグループとか。僕はどっちのグループにも入っていけるタイプでした。周りを見て中立的な立場でみんなと遊んでいたと思います。

ーー周りに目を配らせたり、みんなと仲良くできたのは、昔からだったんでしょうか?
西脇:小学校低学年の頃に通っていた学童保育で自然と身につけたかもしれない。物心つく前から父はいなくて、母が一人で僕を育ててくれました。一人っ子で家に遊び相手もいないので、放課後も夏休みもずっと学童に通ってました。
兄弟はいないけど、自分より大きいお兄ちゃんお姉ちゃん、年代を超えて色んな人と遊んだ記憶があります。そういう経験から、誰とでも仲良くなれるスキルが身につきましたね。
でも、学童に通い始めた時は、あまり周りと馴染めていなくて。一人で寂しくブロック遊びとかやってました。その時、学童のスタッフをやっていたユキちゃんが「ブロック遊びも友達とやったらもっと大きいものを作れるよ」って声をかけてくれたんです。その後、同い年のまりちゃんが一緒に混ざってくれて、夢中で遊んでいたら周りにいっぱい人が集まってました。
何か人と一緒にやるのは悪くないなって、子どもながらに感じたのを覚えてますね。そこからは人と壁をつくらず、ためらわずに自分から話しかけるようになりました。

自分が一人で寂しく遊んでいた経験があるからこそ、みんな仲間に入れて何かやろうという気持ちがある。学童に行かせてくれた母親にも感謝ですね。家、学校だけじゃない、もう一つの居場所に助けられました。
憧れの大人に僕も
学童スタッフのユキちゃんのおかげで「みんなと遊んだ方が楽しい」と気づいた幼少期。中学、高校でも西脇さんの人生に影響を与える大人たちとの出会いがありました。
ーークラスの人気者である中で、何か悩みなどはなかったのですか?
西脇:中学1年生の時に、母の再婚で苗字が変わる出来事がありました。みんなの前では楽しそうにしてたけど、正直心が追いつかない時も。当時の苗字は田上で、みんなには「タノさん」って呼ばれてたので、余計に悩みましたね。両親の配慮もあって、中学まではタノさんで突き通して過ごしてましたけど。当時できた彼女にも西脇であることは隠していたくらいです笑

1番は、新しく父になる人を「お父さん」と呼べないことが悩みでした。でも、父は僕に真摯に向き合ってくれて、何より母のことを大事にしてくれる人だというのが伝わったので、少しずつですが父ちゃん呼びができるようになりましたね。
弟が生まれたことも大きかったです。「お父さん」呼びができないままだと、弟も大きくなったら不思議がるだろうし、父も苦しいだろうって思いました。「お父さん」と呼ぶことで、家族みんなが幸せになると判断したんだと思います。
ーー中学生でそこまで想像して判断できるのはすごいことですね。
中学校では、他に何か印象に残る出来事はありましたか?
西脇:中学生時代は、サッカーのクラブチームに所属しながら合唱部に入っていました。その時、お世話になった合唱部の顧問の先生に影響を受けて「教育」に興味を持ち始めました。先生の「人を惹きつける力」「人をやる気にさせる力」に魅了されて。子どもに影響を与える大人ってかっこいいって思ったんです。

ーー西脇さんの中で「教育」のキーワードが増えた瞬間ですね。
西脇:そうですね。あとは高校の時に出会った体育の先生もそうです。サッカー部の顧問もしている先生で、勉強だけでなく部活動の時でもこんなに支えてくれるのかと驚きました。自分の時間を顧みず、生徒たちをサポートしてくれる先生の姿を見て、「自分も教育に関わりたい」と思うようになりましたね。
ただ、高校の時は小学校からやっていたサッカーに明け暮れていたので、教育系の大学に進学しよう!と明確に決めたのはギリギリ、高校3年生になった時でした。
ーー教育大学に進学されたんですか?
西脇:札幌か旭川か迷ったんですけど、ふと合唱部の顧問の先生を思い出し、中学校の教員免許取得に力を入れている旭川教育大で体育教師の免許が取れるコースに進みました。
震災をきっかけに新たな「教育」の形を知る
教員を目指し進学した大学。東日本大震災をきっかけに新たな「教育」の側面に出会うことになります。

西脇:大学入学直前、2011年に起こった東日本大震災が僕の人生を大きく動かします。震災直後のテレビでは、想像を絶する現地の凄まじい状況が報道されました。予定していたサッカー部の茨城遠征ももちろん中止。間接的ですけど、さすがにやばいと感じていました。自分も何かできればいいけど、どうすればいいか分からない。そんな感情です。
当時は教師を目指して勉強を一生懸命やりながらも、先輩に誘われてご飯行ったり、THE大学生みたいな生活をしてました。でも、震災の時に感じたモヤモヤした気持ちがずっと引っかかっていたんですよね。

ーー震災に対する当事者意識は芽生えていたんですね。
西脇:震災に対して自分がアクションをおこし始めたのは大学2年生の時です。大学に貼られている「ふくしまキッズ」のポスターを見て、「偽善かもしれないけど、これに行けば、被災地に対して何かできる」って思ったんです。教育者の卵として「子ども」というキーワードにも当てはまり、行くことを決めました。
ーー”ふくしまキッズ”はどんな活動なのでしょう?
西脇:原発の放射線濃度が高い地域に住む子どもたちに、安心して外で遊べる環境をつくってあげようという活動。冬休みや夏休みの長期休みを使って、北海道や長崎、愛媛など全国各地に福島の子どもたちを呼んで、1週間〜1ヶ月ほど一緒に過ごすプログラム。僕は、北海道チームに参加しました。
福島の子どもたちは放射能をチェックする測定器を持ち歩き、コロナ時代でもないのにマスクをするのが当たり前でした。その姿を見て驚きましたね。安心して遊べる環境がこの子たちにとってどれだけ貴重なのかを感じました。

初めて参加したプログラムは、函館で4日間みんなでキャンプするという内容。その時、子どもたちと野外で遊びながら学びも与えられる「自然体験」という新たな教育手法を知りました。これにどハマりして、以降も卒業までほぼ毎回参加するようになりました。
ーーふくしまキッズでも、今まで通り西脇さんはリーダー的存在だったのですか?
西脇:いえ、ふくしまキッズ中に、自分の出鼻をくじかれる出来事があって、途中からあまり前に立たなくなりました。
ふくしまキッズのパーティーの催し物を決める会議で、自分がファイヤーダンスを披露することになったんです。それも小学生の頃と同様「わっきーやったらいいよ」っていう流れでやることに。自分も前に立って人を笑わせるのがずっと好きだったので、「よし、やろう!」という気持ちで挑みました。いざ、披露当日。子どもたちは大喜びで企画は成功!僕もその笑顔を見て大満足でした。
しかし数日後、そのパーティーが本当の意味での「成功」ではなかったことに気づくんです。学生たちと事務局のスタッフで振り返り会をした時、僕がやったファイヤーダンスで周りの人に迷惑をかけていることを知りました。僕が抜けた穴を誰かが埋めていて、それをまた他の誰かが埋めている。「わっきーが表に立つのを裏で支えている人たちがいるのを知ってる?」と問われました。自分は周りを考えているようで、考えられていなかったんだと、そこでハッとさせられました。

ーーその経験を経て、西脇さん自身はどのように変化しましたか?
人前に立つことは大変なことなんだと感じました。今までの僕の人生全部を、思い切り横から殴られた感じ。本当に衝撃的でした。でも、この出来事があって、より人のことを想像できるようになったと思います。「今この人はどういうことを気にしているんだろう」「何を考えているんだろう」って。
もし今、当時と同じ状況になっても、子どもたちを笑顔にさせるために前に立つことは諦めないと思います。ただ、もっとみんなと連携を取って、困りごとをクリアしながら調整すると思いますね。

ーー強烈な体験をした後も変わらず、ふくしまキッズでの活動は続けられたんですか?
西脇:そうですね。変態なので、変わらず参加し続けましたよ。笑 僕の大学時代のほとんどがふくしまキッズでした。当時、企画ミーティングに参加するために旭川から札幌まで通ったり。交通費を稼ぐために、バイトするくらい没頭していました。
ーーボランティアのためにバイトをしてたんですね、すごいです。
その原動力はどこから来るんでしょう?
西脇:久しぶりに会う子どもたちに「また来たよ」って言いたい。定期的に会うことで、子どもたちを気持ち的な面で守ることにつながるのではと思ってました。子どもたちが北海道プログラムを選んでくれることも嬉しかったですし、その行動に対して全力で応えたいという気持ちがありました。
夢中になって活動する中で、「僕は学校ではない社会教育の側面でやっていくのかもしれない」と漠然と思うようになりましたね。
ーーそこからどのように地域おこし協力隊の道へ?
結局、教員ではなく社会教育の道に進もうと決めたのは、教員採用試験に落ちたのがきっかけ。
ちょうどふくしまキッズのキャンプ真っ最中に合否が発表されて。すぐに一緒にいた事務局のスタッフに落ちたことを報告しました。そしたら「ようこそ、こちらの世界へ」って歓迎されたんです。この一言で、僕は学校教育ではなく社会教育の軸で働くんだと吹っ切れました。

でも、進路が決まらず大学卒業が迫る一方。どうしようかと思っていた矢先に、出会ったのが栗山町の地域おこし協力隊。ふくしまキッズボランティア事務局のezorockの方が「栗山で、子どもたちの自然体験をサポートできる人材を探している」とのことでつなげてくれたんです。栗山町のことは最初全く知りませんでしたけど、ご縁あってここに辿り着きました。
ーーもしもの話になりますが、もし教員採用試験に受かっていたら、先生になっていましたか?
西脇:「なってない」って言い切れたらかっこいいですけど、多分なっていたんじゃないかな。少なからず僕だけの力ではなく、両親の支援もあって大学に通わせてもらっていたので。
でも、地域おこし協力隊の3年間を経て、学校教育を経験すべきかもしれないと思うようになりましたね。ふくしまキッズでは「自然体験」でしたけど、それが「文化体験」でもいいし、教育の形に固執する必要はない。いろんな教育の形を知るためにも、「学校教育」の面も今後知っておく必要があるのかなって思ったりします。
あなたが未来に残したいものは?
ーー最後に、西脇さんが未来に残したいものは何ですか?
「世代間を超えてコミュニケーションができる、この場所」です。
ここは、近隣市町村の小学校の宿泊学習で使われることが多いんですが、今後はもっと気軽にいろんな人が集まれる場所になってほしいと思っています。
これから教育の幅もどんどん広がっていきます。例えば、教育について子どもばかりにアプローチするのではなく、親世代の30〜40代の方に知ってもらうことも重要。だからこそ、世代の垣根を超えて使ってもらえる場所になって欲しい。
誰もがいろんなもの・ことに興味を持って、体験できる。チャレンジする中で自分に合う何かを見つけてもらえるような場所を残していきたい。尊敬する先輩たちと一緒にそんな未来を想像しながら語ってます。
これは僕の未来を想像した時のある会話です。
子:「パパ、今日わっきーと山に登ったんだ!」
父:「おお、わっきー元気か!パパも小さい頃に雨煙別学校の人たちと山登ったんだよ。あそこの展望台にもう一度行きたいな〜。日曜日に行こうか?」
子:「うん!ママも一緒に連れて行こう」
こんな風に未来でも雨煙別小学校という場が、日常会話のきっかけになってくれたらいいなと思います。
《西脇宏伸(にしわきひろのぶ)》
NPO法人雨煙別学校
雨煙別小学校コカ・コーラ環境ハウス
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