誇れる地域と仕事を未来へ。グッドフェローズダイニングが目指す、憧れの「かっこいい大人」

取材:柴田涼平 執筆:三川璃子 

ーーあなたが未来に残したいものは?

「子どもたちが早く大人になりたいと思える世界を残したい」

そう語るのは、グッドフェローズダイニング代表の西勇二さんです。

グッドフェローズダイニングは、「毎日のワクワクで地域の未来を明るくする」を掲げ、2023年現在、鹿児島県内に16店舗の飲食店を展開。飲食の他、イベントや宿泊・温浴施設の運営、大型テントやキッチンカーなどのレンタル事業を行っています。

昨今どの地域でも抱える人口減少の問題。西さんの地元であり、1店舗目に店を構えた川辺町でも同じように人口が減っていました。「地域を元気にするのは人口だけでなく、それぞれが地域を誇れることが大切」と西さんは言います。

地域に目を向け、一歩一歩前進し続けるグッドフェローズダイニング。歩みを止めず、ここまで辿りついたのは、信頼し合える仲間と西さんの変わらぬ想いがあったからでした。

西さんの少年時代まで遡り、想いの背景を一つ一つ辿ります。

目次

農家の仕事も全力で。飲食の原点は家族の笑顔だった

鹿児島でも有名な黒毛和牛を育てる牛農家の息子として育てられた西さん。友達と遊ぶ暇もなく、毎日過酷な手伝いの日々だったと言います。一次産業が身近にある環境で、どのように「飲食」に目覚めていったのでしょうか。

ーー子どもの頃はどんな生活をしていましたか?

うちは牛農家だったので、小学生の頃から朝6時〜夜10時まで農家の手伝いをしてました。トラクターなどの大型重機に囲まれながら、木を切ったり、畑仕事をしたりする日々。

牛に引きづられることもありましたが、小学校高学年くらいになると、向かってきた牛も投れるようになりました(笑)

ーー中学生の頃も同じような生活でしたか?

部活にも所属してましたし、活動範囲が広がったのでそれなりに自由な時間は増えて遊んでました。でも、仕事に穴開けさせるわけにはいかないという責任感があったので、仕事は続けてましたよ。

ーーなかなかハードな生活をされていたと思いますが、当時を振り返ってみてどう思いますか?

あの時に戻りたいですか?と聞かれたら、戻りたくはないです。それは辛かったからという意味ではなく、常に全力でやってきたから。

当時の力以上のものは出せないと言えるくらい全力でやっているので。仕事へ向き合う力や姿勢みたいなのは、親父から学んだと思います。

正直当時の仕事は大変でしたし、かなり危険な仕事も任されてました。でも父としても、子どもにそんな仕事を任せたかったわけではなかっただろうと、大人になって気づきました。いろんな葛藤がありながら、信じて任せてくれた親には感謝してます。

ーー子ども時代に「飲食」を好きになる片鱗はあったのでしょうか?

4人兄弟だったんですけど、一番上の姉が料理担当で、男3人は現場の働き手になっていました。でも姉が専門学校に進学して実家を離れるタイミングで、僕が料理担当になったんです。

最初は学校で習ったばかりの味噌汁とご飯だけ。ご馳走は作れなかったけど、帰ってきたみんなはお腹ぺこぺこなんで「美味しい美味しい!」って笑顔でいっぱい食べてくれたんですよね。今でもその光景は鮮明に思い出せます。

料理ってこんなに人を幸せにできるのか、喜ばれるのかと感じました。作ってる側もこんなに嬉しいのかと。

あともう一つあるとすると、おこずかいは貰えませんでしたが(笑)ホルモンや良質のお肉をお腹いっぱい食べれていたのは、今に繋がっているかもしれません。

なので、バーベキューの頻度は高かったです。いい意味で食に関しては英才教育でしたね。

外に出て見えた、永遠に尽きることのない「食」の可能性

過去に戻る余地がないほど、一生懸命に家業の手伝いをしてきた西さんですが、高校卒業後は、福岡県の建築デザインの専門学校へ。

「福岡に行って、自分次第でなんでもできると感じた」と語る、西さん。建築の道から飲食で独立しようと思った背景には何があったのでしょうか。

ーー農業を継ぐことは考えてなかったんですか?

高校のときから、鹿児島から出るつもりでいました。建築の本を読むのが好きだったのと、兄が福岡に住んでいたのが理由で、福岡の建築デザイン専門学校へ進学することに。卒業後も建築デザインの会社に就職しました。

ーー外に出てみて、どう感じましたか?

これまでは狭いエリアで毎日同じ仕事をする日々で、外の世界がどうなっているのかなんてわからなかった。牛の世話が優先なので、遠くにもいけず、飛行機にも乗ったことがありませんでした。

なので福岡に来て、一気に知見も可能性も広がった感覚でした。自分が成長するための素材だらけ。地元でも全力で仕事に向き合って、自分は成長したと感じていたので、それができるなら、もう何にでもなれるなと思いました。

全ては自分次第。新しいもの・ことを知れば、何かしら人生のプラスになる。

だからこそ、グッドフェローズダイニングでは早い段階でみんながもっと外の世界にも触れられるように、社員旅行は海外へ行ったり、県外に行ったりしています。

僕が求めていた経験を、今の子たちが経験できる環境づくりは大切にしています。

ーー飲食で独立しようと考え始めたのは?

一人暮らしの家に両親が定期的に仕送りで地元食材を送ってくれたんですが、その量が半端なくて。でっかい肉とお米と、時にはメロンやスイカや焼酎も入ってるんです。

一人じゃ到底消費できないので、よく友人たちを家に呼んでバーベーキューをしてました。僕からしたら普段当たり前に食べていたものなんですが、友人たちみんなは「鹿児島の肉ってこんなにうまいのか!」「焼酎もめっちゃ美味しいじゃん、やばいね」って言うんです。

地元の食の価値を初めて感じたのと同時に、食はこんなに人を幸せにすることができるんだと。食に関わると、ありがとうと笑顔の総数が多いなと感じました。

考えたら、食の可能性って終わりがないなと。飲み物とのペアリングもそうだし、空間との掛け合わせもそう。一生勉強し続けられることが、人生を無限に楽しくさせそうだと思いました。

独立を決めたのは23歳のときです。建築デザインの会社を辞めて、地元に帰ることを決意しました。

なにもない町と呼ばれた地元で、若者が胸を張って語れる場所を

西さんの地元川辺町は、合併してできた南九州市に所属する町で、人口は1.4万人ほど。鹿児島県内でも珍しく、海に面していない町ということで「なにもない町」と言われることも多かったそう。「自分もそう思っていたし、もうこの町には戻ってこないと思っていた」と語ります。

ーー最初は地元から出たいという気持ちで外に出たと思うのですが、1店舗目はなぜ地元川辺町に?

福岡時代、お盆や正月には地元に帰ってたんですけど、久しぶりに地元の友人とご飯を食べに行けるところがファミレスしかなかったんですよね。

地元に一つしかないファミレスに行くとどうなるかというと、町の公民館かと思うくらい先輩や知り合いに会うんですよ。

友達と待ち合わせして来てるのに、ファミレスに入るやいなや先輩に挨拶しに行ったり、違うグループと合流してしまうのがほとんどで、友人たちとゆっくり自分の話もできないくらいで。

せっかく同世代の友人たちと未来について語りたいのに、そんな状況じゃない。寂しい町だなと感じたんですよね。

飲食店が複数あって町が賑やかになれば、当然地元に残ろうという選択肢も増えるし、僕みたいに時々帰ってくる人としても、地元を面白がれると思った。

「今、こんな仕事しててさ」「なんか一緒にできそうだね」とか語れたら最高じゃないですか。その場所を作れるのは、飲食だと思っていたので、1店舗目は川辺で始めることに決めてました。

ーー外に出て西さんが感じた可能性を、地元で表現しようと動かれたんですね。

最初のお店はR・フラッグス(現在は「南九州居酒屋 ナイス!郷」)と名付けました。Ride on Flag の略で、みんなそれぞれが自分の旗を掲げて乗り合いできるようにという意味です。

普段、自分のやっていることややりたいことを遠慮しながら言うことって多いと思うんです。もっと胸を張って自分を表現できる場が欲しいと思いました。自分のやっていることに誇りをもって、それに賛同できるような場所。

そんなメッセージを込めて1店舗目を始めました。

ーー素敵なメッセージですね。

1店舗目の開業で苦労されたことは?

親父に猛反対されたことですね。帰る前日、地元に帰る連絡をしたら最初喜んでくれたんですが、家業ではなく飲食をする旨を伝えたとたん、即答で「飲食するなら、帰ってくるな」と言われました。

2002年当時、飲食業界の景気はあまり良くなかった。飲食は泡のように湧いては消えるもの、水商売というイメージだった。一方で牛農家の景気は上々だったので、「何考えているの」と母親にも心配で泣かれましたね。

それでも「飲食で地域を活性する仕事をやりたいんだ」と押し切って帰郷しました。とは言っても、すぐには物件が見つからないのが現実でしたね。

テナント募集なんて張り紙も見ないような田舎。どこでやろうかと悩んでいたとき、偶然妻の実家の商店を手伝った時に、2階にダンボール山積みの倉庫があることを知りました。

すぐにお義父さんに直談判して、OKをもらいました。1階の中からしか2階に行けない間取りでしたが、外壁をくり抜いて階段入口をつくり、自分たちで改装してオープンにこぎつけました。

賑わいを魅せ続ける。地域を盛り上げるためにできること

飲食を通じて地元の活気を取り戻すため、1店舗、2店舗と少しずつ店舗を展開していくグッドフェローズダイニングですが、店舗設立時の周りの反応は良いものばかりではありませんでした。また、会社が軌道に乗り始めてから気づく、新たな壁も感じたと言います。

ーーグッドフェローズダイニングが地域の店づくりで大切にされていることは?

僕らは地域活性のために店をやっているので、町の人にも挨拶をしっかりして、町の掃除もやっていました。それでも最初は怪訝な顔をされることもありました。

ありがたいことに店舗は大繁盛。でも、町を変えて欲しくないと思う人もいるんです。それでも僕たちは挨拶や地域活動に取り組んで、店の賑わいを見せ続ける。特に売上のへこみがちな閑散期も変わらず、繁盛する姿を維持し続けたんです。

そうすると他のお店が「なんでうちはお客さんが来ないんだろう」「メニューを変えようか」「看板が悪いのか」と考え始めるようになるんです。うちの店に向いていたベクトルが、だんだんと自分の店に向き始める。そこから町が変わり始めていきました。

町の至るところで改装工事が始まって、錆びた配管や古びた椅子などが外に並んでいく。「あぁ、町全体が気づいて活気が戻り始める」と感じる瞬間でした。

僕たちは規模拡大が目的ではないし、ましては同じ様なお店を何店舗も作りたいわけではない。奪い合うことなく町をオモシロくしていくんです。

ーー現在は鹿児島中心街にも店舗を展開されていますが、

比較的人口の少ない地方での出店から、中心地への出店へ切り替えることになった背景とは?

当初は鹿児島市中心街での出店計画はありませんでした。南薩摩エリアの中で、隣接する町同士の賑わいをつくって地方を盛り上げるというビジョンでした。

でも9年目に差し掛かったとき、こんなにやっても人口減少は止まっていないし、町も本当に活気を取り戻せているのか?と立ち止まることがありました。

日本各地で学びながら「未来ある町を創るには、先ず中心地がしっかり盛り上がっていること」というのを目の当たりにし、鹿児島市内中心を覗いてみたんです。

鹿児島のビジネス街、人が行き交う中心ともいえる鹿児島中央駅ですが、当時は駅を出て右側のエリアがめちゃくちゃ暗かった。ほぼ廃れている状態でした。このままじゃ郊外も元気になるはずがないと思ったので、自分たちが立ち上げるしかないと思いました。

ずっと一緒に働いてきた仲間にも「地域を盛り上げるためにも、鹿児島市内で店をやろうと思う」と伝えたら、「ずっと田舎でやると思ってましたけど、地域を盛り上げるためって話を聞いてスイッチ入りました」って言ってくれて。すごい嬉しかった。そこで覚悟決めたのを覚えていますね。

足を前に出せば倒れない。もがきながら歩んだことが強みになる

写真:公園一体化型カフェBlack Smith Premium Gardenから見た桜島

鹿児島市内への出店を決め、瞬く間に展開していったグッドフェローズダイニング。現在は鹿児島中央駅エリアに9店舗を構えています。暗く閉されたエリアには明るさが戻り、若者とサラリーマンが行き交う光景が見られます。

2020年には、鹿児島中央駅エリアと天文館エリアをつなぐ公園一体型カフェBlack Smith Premium Gardenをオープン。県内初の公募設置管理制度を使ったカフェです。

新たな挑戦が始まる矢先、新型コロナウイルスが猛威を振るうのでした。

ーー飲食にとってコロナの影響は大きかったと思いますが、一つの転換期になりましたか?

コロナをきっかけに会社はかなり動きました。初めて社内で緊急召集をかけるほど、コロナは長期化すると予想していたので、本気で今後について考えました。

社員のみんなには「一度思い切って離岸します」と船に例えて伝えました。中途半端に沖に行けば波に飲み込まれる。しっかり自分たちの手で漕いで、恐れず大海原へ出ようと。

今あるみんなの生活は守り続けるけど、不安な人はムリせず降りてもいいよと。そしたら「やりましょう」「一緒にいきましょう」と全員が答えてくれたんです。

正直店を開けても売上はたたないし、何が正しいかわからなくて迷うことはあるけど、足は絶対に止めてはいけないと思いました。コロナだからお金を使わない方法を考えるのではなく、必要であれば投資する。

なのでコロナ期間中は、弁当屋や唐揚げ屋をやったりとか、パンやわらび餅の事業もやりました。催事をやっても人は集まらないけど、何もしないよりは良いだろうと必死に動き続けました。

僕だけじゃなくて、本当に関わるみんなが頑張ってくれていた。僕の知らないところでテイクアウトやランチを始めてる店もありました。

止まると歩き出すのがきつくなるし、倒れてしまう。止まらないことが最善だと信じて、とにかく前に前に足を出し続けました。店のブランディングや商品のブラッシュアップはもちろん、人財育成も止めなかった。

コロナが収まり始めた頃、その動きがかなりフックになって、うちは立ち上がりがとても早かったです。むしろ今は、コロナ前よりも良い業績を出せるようになるほど。

うちに元々なかった強みが今ある状態。店長たちも知見も体力も備わって、今はそれぞれの力が発揮されています。コロナがなければ見つけられなかった会社の強みや個人の成長をたくさんこの機会にいただきました。

ワクワクを武器に!仲間と共に、子どもたちに誇れる地域と仕事を

コロナ禍を振り返って「正直ギリギリでした。自分の体の一部がなくなってもいいから、どうにかしようと思っていました。ただ絶対、これだけは言える!飲食として生き残ることが業界の未来。」と語る西さん。そんな困難な場面も仲間と共に乗り越えてきたグッドフェローズダイニングが大切にすることとは?そして、西さんが描く未来について伺います。

ーー西さんの人生において大切にしていることは?

「ワクワクしているか?」口癖のように自分にも仲間にも問いかけてます。ワクワクして仕事ができたら、人生が愉しくなると思う。

僕たちは誰かにワクワクのエネルギーを与える側。「ワクワクの感染集団」と言ってます。「あの人といたら、自然とワクワクするんだよね~」って言われるような人になる。

よくみんなには、顔の減らないアンパンマンの話をします。誰かに元気を与えるために、自分の顔を犠牲にするんじゃなくて、顔にあんパンがいくつも付いていてボコボコの状態。(笑)いつでもアンパンチが打てる。常に人にエネルギーを与えられる人になろうって。

昔は僕だけがアンパンマン状態でしたが、今はアンパンチを打てる存在がたくさん増えましたよ。

写真:※居酒屋甲子園地区大会優勝の様子

ーー心強い仲間たちが増えるなか、新たに取り組みたいことはありますか?

会社、業界の枠を超えて、誰もがいろんな表現をできる場所をつくっていきたいなと思っています。

鹿児島にはまだまだ自分を表現できる場所や機会が少ないのが現状です。2015年からやっている鹿児島クリスマスマーケットやその他イベント事業ではこうした場を少しずつ提供していってます。

「イベントで歌っちゃいなよ」「MCやったらいいよ」って声をかけてやってもらう。最初は緊張で喋れなかった子たちも、どんどん力を発揮して、今では一人の表現者として活躍してます。

写真:鹿児島AMUプラザ クリスマスマーケットの様子

社内でも裁量はほとんどみんなに任せていて、僕はみんなのやりたいことに対して「あなたらしさがあるか」という確認をするだけです。でも、この権限すら移譲していこうと思っています。無茶振りではなく、みんなを信頼しているから。

挑戦できる場さえあれば、表現できる人はたくさんいる。その挑戦に同世代の子たちが感化されていろんなことが起こるんで、それがまた面白い。

彼らのことを気にかけて、過保護になりすぎないようにしたいです。僕は心の中のトムソーヤが元気かどうか、よく問いかけてます。常に冒険できているか、みんなも冒険できているか。

彼らの表現の色が決まりきっていない状態で挑戦できる環境がとても大事。チャンスだと捉えて楽しんでもらえたらいいなと思います。

その挑戦があまりに大変で倒れそうだったら、思い切り倒れてもらって大丈夫です。僕はその時、手を差し伸べられるように必ずそこに居るから。

ーー西さんが未来に残したいものは?

子どもたちが早く大人になりたいと本気で思える環境です。

最近は「大人になりたくない」「働きたくない」子どもたちが増えていると聞きます。それをどうにかしないとと思います。

働くことってめっちゃ楽しいじゃないですか。大人は自由だし、仕事の話をつまみに飲むお酒が一番うまいんだぞってことを伝えたいですね。

子どもたちがガラス越しに笑顔で呑んでる大人を見て「あっちの世界に早くいきたい」と思わせられるように。僕はそれをみんなと一緒にやりたいし、やると決めています。

かっこいい大人たちを増やしていく。

もちろん飲食は当然僕たちが率先してやりますが、業界の垣根を超えて増やしていきたい。

子どもたちが「ここが世界の中心だ!」と住んでいる地域も大好きで誇れるように。


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この記事を書いた人

「拝啓、未来」編集長
想いをていねいに綴る。その人の“ありのまま”の言葉を大事にしています。

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