取材:三川璃子 執筆:谷郁果 写真:島崎貴裕
ーーあなたが未来に残したいものは?
「ここに、家を残す」
北海道 厚真町。町の中心部から離れた幌内地区。山に囲まれ自然が豊かなこの地域で生まれ育ち、現在は3代目の農家として暮らす、高橋宥悦さんにお話をお聞きしました。
「家、そしてこの地域にある文化も残したい」そんな高橋さんの想いを紐解いていきます。
時代の変化にもまれながらも、続く挑戦
ーー高橋さんは農家の4代目ということですが、お米を主につくっていらっしゃるとお聞きしました。
米と、それからメロンも。今年(2022年)は辞めちゃいましたが。
昔、米が生産過剰になって、町全体としてハウスで育てられる作物を導入してました。ほうれん草、トマト、ピーマン、そしてメロンだとか。その中から、俺はたまたまメロンを選んだ。
今はこの地区でメロンをつくっている農家はいないけど、当時は7軒くらいいたのかな。
ーーそれらは、厚真メロンとして世に出ていたのですか?
厚真メロンというブランドで出してはいなかったかな。どこの地域でも、米づくりよりハウス栽培に力を入れていた時代だった。
同じ冷作物でも、それぞれの市町村で競争しないように模索しながら必死につくりました。農家も激しい時代だったんだ、あの頃は。
ーー競い合うような時代だったんですね。そんな中、髙橋さんが農家を継いだのはどのような背景だったのですか。
ごく自然に、だね。俺が中学生のときに、親父が調子を悪くしたのもあって、休みがあれば手伝ってました。まあ、あの時代はみんな同じだったと思うよ。
高校は静内の農業高校に行って。3年間の寮生活が終わって家に戻り、親父に教えてもらいながら継ぐことになりました。
ーー最初は大変でしたよね。
それなりに大変だった。遊ぶのに忙しかったからね(笑)。なにせ二日酔いで農作業だから。高校を卒業したあとなんて、そんなもんだよ。昼はがっちり作業して、朝まで遊んで、また農業して。今振り返ったら全然寝てないな(笑)
ーーパワフル!すごい元気ですね(笑)
今はやっぱり収穫の時期でお忙しいですか?
今年(2022年)からトマトをつくり始めてね。今年が初めてだから、試験段階。燃料と生産量の採算が合わないから、来年はもうこの時期に採るのは終わりかな。
前任の想いを継ぎ、田んぼのオーナーを守る
子どもの頃から農業一筋で暮らしてきた高橋さん。メロンやトマトの栽培のお話からは、ひとつのことを続けるのではなく、時代に合わせて挑戦を重ねてきたことが伺えます。高橋さんの挑戦のひとつに、「田んぼのオーナー制度」がありました。
「田んぼのオーナー制度」とは、農地から離れて住む人が田んぼのオーナーとして会費を払い、年に数回、田植えや草刈り、収穫などの作業を行うというもの。自然に触れたい、子どもに農業を知ってほしい、という家族や個人がオーナーになることが多いとか。
高橋さんは、厚真町の受け入れ農家の中心となり、訪れるオーナーたちへ田んぼづくりを教えています。
ーー厚真町の「田んぼのオーナー制度」には、何人くらいがいらっしゃるんですか。
もともとそれほど多くなかったんだけど、地震(※)以降は人数が増えてね。前は50人くらいだったかな、今ではファイターズとのコラボもあって、100〜150人くらいだよ。
※北海道胆振東部地震。2018年9月6日に北海道胆振地方中東部を震源として発生。厚真町では最大震度の震度7を観測した
出典:「ふぁい田!北海道応援プロジェクト」厚真町と栗山町で田植えを実施
奥さん:ファンクラブの人たちが、子どもを連れて参加してくれるの。お米だけじゃなくて、ハスカップ狩りとか、稲をつかってしめ縄づくりとか。しめ縄はファンの人にプレゼントするのよ。地震をきっかけに、いろんな形で復興支援してくれているということだから、私たちもそれに応えなくちゃね。
ーー高橋さんは、どなたからか引き継がれたのですか。
小納谷がやってたんだけど、実は急に亡くなってね。それが地震のあとでした。
地震が起こる前に、小納谷から「次はお前がやってくれ」とは言われていたんだけど。それから具体的な相談もなしに、いなくなっちゃったからね。声をかけていたのが俺しかいなくて、急に引き継ぐことになりました。
ーー急に担うことになったんですね。戸惑いはありませんでしたか?
やっていかんと駄目だ、って気持ちだね。責任感でやってます。
隣で取材を聞いていた高橋さんの奥さんにも当時の様子について、うかがいます。
奥さん:前にやられていた小納谷さんは、とても人を大切にする方だったんです。だから一度オーナーになってくれた人が毎年毎年来てくれる。震災の時にも、避難所にオーナーの人が駆けつけてくる姿もありました。
小納谷さんがうちの旦那に引き継ぐという話を聞いたときには、「あ、ちゃんと人を選んで頼んだな」って思いましたよ、私はね。
ーー高橋さんの人柄もあって、小納谷さんからバトンを引き継いだのですね。
この思いは、言葉では表現しきれないですね。
引き受けた以上、死ぬまでやり続けるという意志です。
祖父が復活させた、幌内神楽の歴史
高橋さんが前任者の想いを引き継いだ「田んぼのオーナー制度」。さらにもうひとつ、継承に取り組むものがあります。
ーー高橋さんは、この幌内地区に続く「幌内神楽」にも取り組まれているとうかがいました。
神楽の継承も必然的でした。こういう性格だから、なんとなく後継者としてすぐに声がかかったんです。
聞くと、「幌内神楽」の本家は岩手県奥州市・前沢。厚真町に入植してきた岩手県出身者が神楽を持ち込んだのだとか。一度は姿を消していた神楽ですが、高橋さんの祖父によって復活したそうです。
一度神楽は姿を消したけど、祖父が神楽で使う「ほら貝」を見つけたらしい。うちの祖父がもう一回神楽をやろうって言って、岩手県奥州市、前沢へ勉強に行ったそう。それが復活のきっかけです。
ーー今も定期的に神楽はやられているんですか。
今は秋祭りと正月。それから田舎祭りでもやってる。
担う「役」は、神楽に所属してから順番で変わります。俺は今、楽器隊。
でも最初は、神楽の運転手からはじめるんです。そこから荷物運びをして、衣装をもらえるまでに下積みが長い。楽器を担当するまでにも10年くらいかかったな。
ーー今は何人くらいでやられているんですか。
9人だと思います。だけど、うちらがいなくなったらもう難しいかな。幌内に住所がある人って、若い者でもう56歳とか。次の世代が繋いでいってくれたらいいけどね。
ここ幌内で、生きていく
ーー子どもの頃からこの幌内地区で暮らす高橋さんから見る、暮らしの良さってなにかありますか。
もう見慣れてるからな、良さを探すのは正直難しいです。でも、ここは山が近いってとこがいいところかもしれない。
ーー山と聞くと、胆振東部地震で厚真町で大規模な地すべりが発生したことを思い出すような気がしますが。
この辺りの山も、崩れたよ。大変だったけど、正直どうすればいいのか、避難所にいて何もできなかった。
ーー今も、あちこちで工事が行われていますね。それも、地震の影響ですよね。
工事はしているけども、復旧は難しいなと思います。自然回復に任せるしかない。自然に草が生えて、そこから木の枝が戻るのは100年かかる。なかなか元には戻れないんだ。
それでも、家の近くに山があるのはずっと変わらないよね。
次、農業としてできないかな?と考えているのはぶどうです。はげた山こそ、逆にうまくいくんじゃないかと。
石を積んで、棚にして、ワイン用のぶどうをつくる。俺が生きている間にな。何十年かかるかわからんけど、それが夢かな。
ーー高橋さんの未来に残したいものは?
俺は、この幌内にぽつんと一軒家。それで有名になろうかな(笑)。
言葉数の少ない高橋さんですが、ものごとを引き継ぐことの責任と、過去や文化を大切にする優しさをいくつも感じました。前任の想いと共に、未来に向かう背中が凛々しく、高橋さんの生き様を教えてもらった気がします。(取材担当:三川)
《高橋宥悦(たかはしゆうえつ)》
北海道厚真町出身。高校卒業後家業である農家を継ぐ。お米の他、ピーマンやほうれん草、トマトなどの施設園芸も行う。田んぼオーナーの受け入れ農家として、田んぼを管理。その他幌内神楽のメンバーの一人として文化を守り続けている。