取材:柴田涼平 文:福田千聖 写真:小林大起
──あなたが未来に残したいものは?
「子どもたちが夢をもって頑張れる、「選択肢」を残したい」
そう答えてくれたのは、北海道厚真町で漁師をする澤口 研太郎(さわぐち けんたろう)さんです。
「いろんな人にもっと海に親しみを持ってもらえるように活動していきたい」──厚真で生まれ育ち、地元へのアツい想いを持つ澤口さんの背景を辿ります。
厚真の港を残すため、自ら選んだ漁師の道
父の跡を継いで漁師になった澤口さんですが、高校卒業後に入った会社は漁業とは全く違う職種だったと言います。漁師の道に進むまでの経緯を伺います。
──澤口さんの生い立ちを教えてください。どんな子ども時代を過ごしていましたか?
澤口:僕はここ厚真町出身で、小中学校は地元の学校に通っていました。
小学校のときは外で遊ぶことが多かったですね。友達とサッカーしたりとか。積極的にリーダーをやるタイプではないんですが、小中高と児童会と生徒会をやってました。
リーダーは誰かがやらないといけない。「やる人がいないなら、やる」という感じでした。
──高校以降は地元を離れていたのでしょうか?経歴も教えてください。
澤口:苫小牧工業高校の電気科に入って、卒業後は苫小牧にある牛の餌を作る会社に就職しました。製造ラインのオペレーターや電気設備の保守点検などやってましたね。
社会人3年目になり、仕事に慣れ始めてからはいろんな部署を任されるようになりました。
仕事にやりがいも感じて楽しかったけれど、その反面残業も多くて忙しい日々を過ごしていました。その頃から自営業もいいかなと考え始めたと思います。
──小さい時から漁師になることは考えていたんでしょうか?
澤口:そこまでなかったと思います。「漁師になりたい!」と思う時期ももちろんありましたけど、大人になるにつれてですね。小さい頃からの思い出がある「この小さな港も残したいな」と自然に思うようになって「やっぱり漁師になろう」と決意しました。
──漁師になる最後の決め手は何だったんですか?
澤口:弟が入りたい会社から内定をもらったときです。同時期に、父が漁師を継いで欲しいという思いを伝えてくれて。弟の未来のことを考えたら、自分が漁師を引き継いだ方がいいなと思ったんです。
──「いないなら、やる」学生時代のエピソードと通ずる部分がありますね。漁師になって最初の1年目から3年目ぐらいはどんな時間の過ごし方をされてましたか。
澤口:大体夜20時に起きて、21時に船を出す。海での仕事が終わって、14時〜15時ぐらいに会議に出席。
その後はご飯食べて17時くらいに寝て、20時に起きるっていう1日ですね。当時は2.3時間の睡眠が続いてましたね。
──すごいスケジュールですね。
それを2年続けて、個人のルーティンが確立した3年目ぐらいから落ち着いてきました。
ただ最初の1〜3年のあいだはかなり船酔いしましたよ。寝不足が続いたり疲れが溜まって体調が悪くなると、船酔いしやすくなるので身体をコントロールするのが難しかったですね。
──現在、漁に出てるのは人数的には何人ですか。
普段は僕と父親と2人です。
──最初、親子で仕事をするっていう心持ちはどうでしたか。
最初は、あんまり父親と一緒に仕事してるって感覚がなかったです。父と話してコミュニケーションをとると言うよりも、とにかく仕事をする父の姿を見て覚えることが基本でした。わからないことは聞きながら、少しずつ覚えていきましたね。
地球を感じる厚真の暮らし。海への親みをもってもらいたい
幼少期から責任感が強く、弟の未来のことも考えて、漁師を継ぐことを決めた澤口さん。厚真での海の暮らしについてうかがいます。
──漁師をやっていて、楽しいと感じることはなんですか?
海の上から見る「日の出」が、本当にすごい綺麗だなと思いました。
東から西まで空をぐるっと囲む光のグラデーションで、空も丸く見えるんです。その時初めて「地球って丸いんだな」っていうのがわかるんです。
幻想的な中で仕事できるので、すごい楽しいですよ。
──いつか見てみたいですが、これは漁師さんの特権ですね。漁師をやっている上で、こだわっていることはありますか?
魚の値段が毎年変わったりと変動の大きい仕事ですが、常に「できるだけ新鮮で良いもの」を出荷し続けたいっていうことにこだわってます。
網に絡まった魚を外して箱詰めする作業があるんですけど、良い魚は傷がつかないように丁寧にとって、生けすに生きたまま入れて出荷しています。そういうできるだけいい状態でっていうのは心がけています。
一人でやるよりもみんなで創る
──仕事をしていて、幸せだと思う瞬間はありますか?
澤口:一生懸命取った魚とか魚介類がいい値段で売れたりすると、すごいテンション上がりますね。ああ、頑張ってよかったなって気持ちになります。
あとは、仕事の合間や仕事が早く終わった時に弾く「ウクレレ」の時間が好きです。ふとやりたくなって一人でもくもくと練習していたんですけど、海の上で弾くウクレレはとてもいい時間なんですよ。
──ウクレレいいですね!素敵です。他にも熱中してやっていたことはありますか?
澤口:2年くらいウクレレを一生懸命練習してたんですけど、途中で「1人でできないこと」をやりたいなと思うようになったんです。
それからいろんなとこに顔出すようになって。近所の草刈りや、畑を耕すお手伝いなどしてました。町を盛り上げるための青年部の集まり「厚真新鮮組」にも所属することになって、さらに漁業以外の町おこし系の仕事が増えました。
震災後には、町内外の人たちが集まれるコミュニティスペース「イチカラ」の立ち上げにも力を入れましたよ。
──本業がある中でまちの困りごともお手伝いされてたんですね。こうして仕事以外で町に関わることで、澤口さん自身の気持ちに変化はありましたか?
澤口:なかなかまちづくりに関わる機会ってないじゃないですか。イチカラ立ち上げ時は、実際に携わって、形にできたことが自分の自信になりました。出来上がった時の光景を見て関わることができて本当に良かったと思いました。
つくったものが10年20年残っていけばいいなと思いますし、どんどん引き継いでくれる人が出てきたりしていけばいいなと思ってます。
──町おこしにもともと興味があったのですか?
子どもの頃に見た、神社のお祭りに出てる大人がかっこよかったんですよね。焼き鳥焼いて、太鼓叩いてみたいな大人がかっこよく見えた。だからやる側になってみたいと思ったんです。
今後も、町内でお祭りをもっと増やしていきたいですね。お祭りにいろんな人が集まれば、子どももいろんな大人を見ることができるし、いろんな人生に触れることができて、成長に繋がると思います。
未来に残したいものは?
──気候変動等の環境に左右されやすいお仕事だと思いますが、澤口さんが漁師として、今後やっていきたいことはありますか?
澤口:これから環境の変化で魚が減り、天然の魚は限られてくるかもしれません。それでも少しでもいろんな人に食べてもらえるようにPRしていきたい。
もっと海に親しみを持ってもらえるように活動していきたいなと思っています。
魚嫌いでも貝が嫌いでもいいんです。
もちろん魚を食べて「美味しい」と思ってもらうのはとても嬉しい。でも、海に行って潮風をかいだり、海の景色を見て「海いいな」って感じてもらうだけでもいい。
何でもいいので、1人でも多くの人に海に親しみを持ってもらえればと思います。
──澤口さんが個人的にこれからやりたいことはありますか?
浜厚真で子どもたちも一緒に入れるようなお店を開いてみたいと思っています。僕の住むエリアは飲食店が少ないので、みんなが少しでも休憩できるような場所を作りたい。
今やっている仕事と違う業種のカフェやパン屋などに挑戦してみたいですね。あと、キッチンカーもやってみたいです。
──最後の質問になりますが、澤口さんが未来に残したいものはなんですか?
澤口:子どもたちが夢をもって頑張れる、「選択肢」です。
持つ夢は何でもいい。子どもたちの夢の可能性を広げてあげることが大切だと思っています。
例えば、子どもたちが大人になって厚真を離れたとしても、「うちのまちにはかっこいい大人がいたな」と思い出してくれるようになったらいいなと思うんです。
自分が小さい頃に「港を残したい」と思ったように、今の子どもたちにもそう思える体験をさせてあげたい。
誰かが漁業をやっていないと、当然この港の風景もなくなってしまいます。将来自分の子どもたち世代に「漁業」という選択肢も残すため。
そして、子どもたちに少しでも可能性を残してあげるために、これからも漁師であり、かっこいい大人でありたいですね。
《澤口研太郎(さわぐちけんたろう)》
厚真町出身。苫小牧工業高校卒業後、飼料製造会社へ就職。その後厚真へUターンし、漁師の道へ。次代を担う漁業後継者の育成・確保を目的とした漁業士を担う。本業の他、コミュニティスペースイチカラを立ち上げ、厚真新鮮組、厚真消防団や浜厚真救難所、厚真町地域脱炭素推進委員会、ボランティア運営委員会などに所属し、町内でも多岐に渡り活動している。