ふるさとの栗山には、描きたい「材料」がある。

取材:柴田涼平 執筆:芹澤実咲 写真:葉山月飛


ーーあなたが未来に残したいものは?

「媚びずに今を生きるだけ」

そう語るのは、東京からUターンして栗山町で活動するイラストレーターの藤島亮さんです。

東京では某制作会社のアートディレクターを担っていた藤島さん。あのローリングストーンズのレコードの表紙を手がけるなど幅広く活動していました。

2002年に栗山町にアトリエを移した現在は「ここのまちにしかない」原風景を描いています。

「栗山は俺にとっての絵の材料があるんだ」と語る藤島さん。夕張川で削られ丸くなって流れ着いた石。雪の中に光る空き缶、夕焼けに染まる御大師山の地蔵たち。藤島さんがみる栗山町の日常世界を覗く取材となりました。

東京を離れ栗山という土地で創作活動を続ける、藤島さんの過去と現在、そして未来を辿りながら、紐解いていきましょう。

▼インタビューの様子は音声でも聴けます。

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目次

栗山から東京へ、おぼろげに絵の道へ

藤島さんは栗山出身。戦時中に生まれ、子どものころには戦争の終わりを告げる「玉音放送」もリアルタイムで聴いたそう。「今よりも厳しい寒さで、雪も多かったね」と当時を振り返ります。栗山で生まれ育った藤島さんが、イラストレーターになるまでの過去をのぞいてみます。

ーー学生時代のお話を聞かせてください。

藤島:高校卒業まで栗山で過ごしていて、勉強をあまりしない鼻垂れでした。でも、高校卒業の時に将来のことを考え、おぼろげに「絵しかない」と思いました。思い返すと、僕は看板屋の息子で、絵の具などは身近にあった。兄弟も絵が上手で、その姿を見て「絵」を描くことに憧れを抱いていたのかもしれない。

学校の先生から「武蔵野美術大学(ムサビ)が後期生を募集している」と聞き、応募することに。有名大学ですし、落ちるのは目に見えてました。「もしかしたら入れるかも」っていう甘い考えで受けました。

面接では「落ちることはわかっています。入学を阻むモノは試験です。」と本音で答えたほどです(笑)

結果はまさかの合格。現役でムサビに通うことになり、東京に移住しました。

父に内緒で受験をしたのですが、合格したことを父に伝えた時はとても冷静でしたね。入学費や画材など、結構な費用を親に負担をかけ、すまないと思ったものです。父には感謝してますよ。

ーー大学生活で「イラストレーター」になると決断するような出来事はあったのですか?

大学2年生の時、友人に誘われて、日本最大の商業美術コンペと言われるコンテストに応募しました。友人と得意分野を出し合って、4枚の連作をつくることにしたんです。

スケッチを消しては描きを繰り返す日々ですよ。徹夜もしました。

「どうせ落ちるだろう」と記念に受けたつもりでいましたが、ある日電話がかかってきて入選したことが告げられました。

この入選がかすかな自信となり、卒業後も「イラストの道も悪くないかな」と思えるようになりました。チャンスはいつ来るかわからないから、それまで東京で仕事をしようという思いで、東京に残りイラストレーターの道に進んだのです。

ものは朽ちるが山は残る。永遠に消えない栗山

ーーいつ頃まで東京でお仕事されていたんですか?

20代前半から60代前半まで、東京にいました。

でも栗山は好きなので、東京に拠点を置きつつ、帰ることも多かったですよ。自分の故郷が、今どんな様子で、どう変わっていくのか、気になっていたんです。

ーー栗山は、昔と今とで変化はありましたか。

栗山もずいぶん変わりましたよ。上京する前の栗山は、道路も舗装されていないし、水洗トイレもなかった。車が走っていることすら、新鮮だったね。

栗山のメイン通りは、電柱が埋設されてるんですよ。きれいな町づくりを目指して、文化圏も経済圏も発達していったと思います。

でもこうして経済は豊かになったけど、人口は少なくなっていますよね。

特に子どもたち。小中高の生徒はどんどん減っていってます。その中でも、北海道日本ハムファイターズ監督の栗山英樹さんが何かの縁で居を構え、そしてご自身の夢である、少年野球場を作りました。他方、町は栗山高校の発展につなげるため、栗山高校女子硬式野球同好会が発足したりするのはいい流れですよね。

こうして子どもたちの大きな夢を援助する大人も増えていくといいなと思います。

今は、地域おこし協力隊が頑張ってくれていますよ。彼らが独自でレストランを開いたり、お祭りでステージを作るなど、アイデアを実行に移していく姿は素晴らしい。僕は、彼らが企画したものに参加するくらいしかできないかもしれない。それでも僕たちは栗山で頑張る人たちを応援していきたいです。

ーー時代と共に変わる栗山町で、ものづくりを続けようと思われた理由は何ですか?またものづくりにおいて大切にしていることを教えてください。

栗山に戻ってきたのは、僕にとっての絵の材料が栗山にあるからです。ここにいれば絵を描くことが続けられると思いました。

栗山には永遠に消えない風景があり、その風景は僕にとっての絵の材料。東京と栗山では、仕事に向き合う「心」の質が違うと感じています。同じ絵でも自分の「心」が踊っているかどうかで変わる。

ーー「栗山の風景は僕にとっての絵の材料」についてもう少し聞かせてください。

栗山の風景の中には、変わる風景と朽ちる風景とがあります。

変わる風景は、木、花、風などの春夏秋冬の変化がある自然。朽ちる風景は、お地蔵さんなどの人工物。

きっと僕が死んでも、栗山にある御大師山は残るよね。御大師山にある88体のお地蔵さんも、朽ちてはいくが都度修復され、豊作を願った人々の想いを乗せて、残っています。

僕が死んだあとも残る風景。それこそが栗山そのもので、カタチにした作品は僕にとっての創作活動なんです。

ーー質の高い創作活動をしている時、どういった楽しさを感じていますか。

例えばこの小さな地蔵の表情や後ろ姿、全てうまくいった時はニヤっとします。

「やったぞ!」と思える時の楽しさは、きっと僕にしかわからないことです。

東京では比較的、理屈のあるデザインが要求されますが、正直イラストレーターに理屈はいらないと思っています。

依頼を受けた栗山町の商店街ののぼりは、ありがたいことに周りの理解もあって、自己満足を追求してデザインできました。イラストレーターはいろんな絵が描けて、世渡り上手じゃなければいけないかもしれない。でも、屁理屈なく追求できるものが本物かもしれません。

本質を追求したものを生み出す

ーー藤島さんの見る世界が全てアートなのだなとお話していて感じました。

足元にあるものも全て、その生き様や人生があるんだよね。例えば、捨てられて、トラックに潰され、まったいらな無様な姿になった「空き缶」が、雪しかない真っ白の世界で、太陽の光を浴びてギラッと光る・・・。缶としての指名を終え、廃棄物になってもなお主張している姿が強烈だよね。

散歩の時、キレイな石を見つけて拾うことがあります。川の流れに削られ、丸くなって夕張川の川辺に辿り着く。石にも歴史がありますよね。

でも、宇宙は目に映るものだけど、もらえないんだよね。星は拾ってくるわけにはいかないから。我々は触れられない宇宙を想像して、頭に焼き付けて表現するんです。

ーー最後に、未来に残したいものを教えてください。

残したいものはないです。

もし今の作品の制作途中で死んでしまったら、その作品が残したいものになるかもしれない。これから残したいものが生まれる可能性もあります。

ただ、媚びずに今を生きるだけです。

残している絵も、媚びていると思ったら可愛く思えなくなります。媚びずに作品を作っていたら、誰かが意味や価値をつけてくれるかもしれないですよね。だから、僕はこれからも、自分の質を追求したものを生み出していきます。

藤島亮(ふじしまりょう)
栗山町出身。武蔵野美術大学卒業後、東京でアートディレクターとして活動。ローリングストーンズのレコード表紙を担当するなど、数々の実績をもつ。2002年に栗山町へUターンし、アトリエを持つ。絵画のみならず、御大師山にちなんだ小地蔵による「五百羅漢像」を制作するなど、創作活動をしている。

■栗山アトリエ「遊筆庵(ゆうひつあん)」
 栗山町中央3丁目83番地

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この記事を書いた人

「拝啓、未来」編集長
想いをていねいに綴る。その人の“ありのまま”の言葉を大事にしています。

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