取材:柴田涼平 執筆・編集:三川璃子
ーーあなたが未来に残したいものは?
関わる人全てが幸せになる、楽しめる「場所」
そう語るのは、府中・調布でFSCサッカースクールを運営する有田正宏さんです。
FSCサッカースクールとは 2003年にスクールを開校。「楽しむこと」に重点をおきながら、生徒一人ひとりの性格や能力に合った練習を行っています。主に未就学児から小学生向けに、レッスンコースを設け、約100名ほどのスクール生が通っています。 |
有田さん自身は元日本サッカーリーグ(Jリーグ発足前の呼び名)の選手。
有田さんがサッカーの道を選ぶことになったきっかけと、現在のスクール運営に至るまでのストーリーをうかがいます。
取材を担当した柴田は大学時代、FSCサッカースクールのコーチを担当。有田さんと昔話にも花を咲かせている様子も覗いてみてください。
スポーツは純粋に「楽しむ」もの
「サッカーは遊び。子どもの成長のための手段になってほしくない」
ーースクールでは子どもたちに負けない笑顔で、サッカーを楽しむ有田さん。その想いの背景にせまります。
ーー約20年近く続けているサッカースクールについて教えていただけますか?
有田:東京都の府中市と調布市のフットサルコートでサッカースクールを運営しています。生徒数は今は大体約100人くらいですね。未就学児〜小学生の子たちをメインに教えています。
ーーFSCサッカースクールの特徴は何ですか?
有田:当スクールでは「本気で楽しむこと」を重要視しています。
長年サッカースクールをやってきて、子どもたちが型にはまってサッカーをしているなと感じる時期がありました。どこかやらされているような感じ。
僕はサッカーの本来の姿は「遊び」だと思っています。でも、なぜか「子どもたち、自分たちを成長させる競技」という認識でやっている人が多いと思うんです。
スポーツに成長を求める傾向に違和感がありました。
大人になったら、仕事終わりや休日に純粋にサッカーをスポーツとして楽しめるのに、子どもたちもそれじゃダメなのかなと。
FSCでは、純粋にスポーツとしてサッカーを楽しんでもらいたい。ただ楽しむのではなくて、本気で楽しんでもらう。
楽しむことは難しくないけれど、「本気で」楽しむ環境をつくるのは努力が必要です。
「どうやったら子どもたちがサッカーを全力で楽しめるのか」を日々追求しながら、自分自身が子どもたちと一緒に全力でサッカーを楽しんでやっています。
ーー僕も元々コーチとして関わらせてもらっていましたが、本当に楽しくやらせてもらっていました。
有田:子どもたちにサッカーを「教える」というより、大人がどんなふうに楽しんでいるのかを見てもらっていたね。
コーチたちがどれだけ本気で楽しめるのか。それを見せることを大事にしているのは、うちのスクールの特徴です。
自らの力で、サッカーの道を追求しつづける
有田さんがサッカーに目覚めたのは小学3年生の頃。友人の誘いをきっかけにサッカーチームに入団。そこから、有田さんのサッカー人生が始まります。
やりたいことに真っ直ぐに。サッカーと母が教えてくれた「諦めない心」
有田:小さい頃は泣き虫だった。小学校で忘れ物をして、先生に怒られるだけで泣いてたね。
ーー今じゃあんまりイメージできないですね。
有田:それがサッカー始めてから、泣き虫じゃなくなったんだよね。毎日の練習もやらされている感覚はなくて。「楽しい」が先行していたんだと思う。
あの頃は「上手くなりたい!」と思って無我夢中で練習してたね。
でも、うちは田んぼの中にある一軒家に住んでいて、サッカーの情報を収集するのが難しかった。サッカーマガジンを読みたくても本屋がないから手に入らない。
そこで小学生の僕が考えたのが、近所の雑貨屋さんに仕入れてもらおうということ。「毎月マガジンを入れてほしい!」って頼んだら、本当に入れてくれたんです。
当時それだけサッカーに夢中になって、情報に飢えていたんだろうね。
ーー小学生ながら考えられない行動力です…!
有田:サッカーマガジンに載っていた「イギリスサマーキャンプ」にも行きたくて、小学6年生のときに勝手に資料請求して、母親にプレゼンしたり。
大阪で行われた※ペレの引退試合も、学校休んででも行きたいと説得して行ったこともありますよ。
(※ペレ:ブラジル出身のサッカー選手。1950年代〜1970年代にかけて活躍し、「サッカーの神様」と呼ばれる選手)
中学校もサッカーを続けるために、県大会出場経験のある国立大学附属中学校を選びました。受かるために猛勉強の日々です。
当初合格率は10%程度しかありませんでしたが、結果は無事に合格。狙い通り、中学校でもサッカーを続けることができました。
ーー有田さん自身の行動で、いくつもの壁を乗り越えてきたのですね。
有田:今思えば、「諦める」という選択肢はなかったですね。自分の中でサッカーはこだわりのあるものだった。
他のことは結構適当だったと思うけど、「本当にやりたいこと」に対しては真剣に向き合って、解決しようと思っていたんだと思います。
ーー有田さんの「諦めない」行動の背景には何かあったんでしょうか?
有田:「人生の道は幅広いから、別に真ん中を歩かなくてもいい」という母の言葉に影響を受けているかも知れません。
踏み外してはいけないけど、道幅いっぱい使って歩いて行けばいいと教えられました。
だからこそ、目一杯やりたいことに向かっていけたのだと思います。
プロになって気づいた、大切にしたいサッカーへの想い
中学、高校の学生時代はサッカー漬けの日々。有田さんにとって毎日ドリブルをしながら登校するのは当たり前でした。
周りにとやかく言われても「将来サッカーで飯を食っていくから、このくらい当たり前だ」と言い放っていたそう。
「俺そんなこと言ってたのか!って同窓会で友達に言われて気づいたんだよね」と、照れながら語ってくれた有田さん。実際にサッカー選手の夢が現実になるまでの道のりをうかがいます。
ーー明確にサッカー選手になろうと思ったのはいつ頃ですか?
有田:大学2〜3年のときかな。サッカーコーチの資格を取る講習会の手伝いをしに行ったとき、日本リーグで活躍している選手に直接関わることがあったんです。
彼らの姿をみて、漠然と「選手になる、チャレンジをしてみたい」と思いました。
ですが、入っていた大学のサッカー部は全国大会の一回戦で負けるようなチームで、選手としてスカウトがもらえるなんてことはもっての外でした。
なので、まずは日本リーグとつながりのある先生に「日本リーグに行きたい」と宣言して、それぞれのチームにアプローチをかけることに。
でもどのチームも選手枠は埋まっていて、なかなか選手として取ってくれるところはありませんでした。
ーーどんな出来事があって、日立製作所(柏レイソル)に入ることになったのでしょうか?
有田:大学4年の夏休みに練習に参加させてもらって、その後に日立製作所のコーチがわざわざ大学まで見にきてくれたんです。そこで取ってくれることが決まりました。
ーーすごいですね…!念願のプロ選手になったのですね。
実際チームに入られてどう感じましたか?
有田:うちのチームには、代表候補になっている選手も何人かチームにいたんですが、動きが段違いで、次元が違うことに圧倒されたのを覚えています。
僕はサイドバックを担当することが多かったんですが、全く考えられないようなところからボールが出てきたり。とにかく走らないと追いつかない、そんな状況でした。今まで経験したことのないサッカーという感じです。
ーー入った人にしかわからない、厳しいスポーツの世界ですね。
有田:私自身一生懸命もがいていましたが、怪我をしてしまったりで、本当に厳しい世界でした。
約2年間、週に2回出社して会社の仕事もしながらの選手生活。いろいろなことを教えてもらったなと思います。
ーー生涯「サッカー」を追求し続け、プロ選手になったことで有田さんの中で達成感はあったのでしょうか?
有田:自分が生涯持っている夢は3つ。サッカー選手になること、海外で生活すること、ポルシェに乗ること。なので、日立製作所に入ったことで一つ目の夢が完遂されて満足してしまった部分はあります。
選手になるまではすごく楽しくやっていたけれど、なってから楽しめていない自分がいました。
レギュラーにならないといけないプレッシャーや怪我が多くて練習自体苦しい時もありました。
会社をやめた時は同時にサッカーはもう辞めてもいいと思ってました。
ーーそこからまた、「サッカー」に関わりたいと思ったのはなぜですか?
有田:会社を辞めてすぐ、もう一つの夢である「海外暮らし」を実現するためにロサンゼルスに行ったんです。そこで知り合いの息子が通う高校のサッカーチームのアシスタントコーチをやったのが一つの転機になりました。
言葉も通じない状態で高校生に教えることは初めてでしたが、一緒にサッカーをすることで話す機会も増えて、僕のことを兄のように接してくれるようになっていった。
そんな時間を過ごしながら、ふとサッカーコートの芝生を見て「俺にはサッカーしかない」と思ったんだよね。サッカーに戻りたい想いが芽生えたのは間違いなくあの瞬間でした。
紆余曲折の末、たどり着いたサッカースクールの立ち上げ
海外暮らしの夢をも実現し、自分の想いに気づいた有田さんでしたが、父の突然の訃報に急遽帰国。サッカーの道に戻るまで、さらなる壁が立ちはだかるのでした。
有田:海外で生活し始めて半年たったとき、母から父が亡くなったことを知らされました。急いで日本に帰国。母も心配だったので、日本での生活に切り替えました。
サッカーコーチの仕事には興味があったのですが、資格を取るためには海外に1年以上いなくてはいけません。
父の訃報や自分自身の結婚が重なり、コーチの仕事は断念。普通の会社員として仕事をすることを選びました。
ーー会社員のキャリアから、サッカースクール運営に辿りつくまでの背景を教えてください。
有田:10年会社勤めして、36歳ごろに体を壊したんです。会社の厚意で、部署移動もしてくれたんですが、仕事自体にやる気を失う時期がありました。
そんな時、苦しんでる私を見て大学の一つ下の後輩が「有田さん、サッカースクールしたらいいんじゃないですか?」って声をかけてくれたんです。
これまでボランティアでしかジュニアチームを教えたことがなかったので、最初はうまくいくか不安だったけど。周りの協力もあって、始めることにしました。
声をかけてくれた後輩も手伝ってくれて、二人で一緒に練習メニュー作りや開業準備をし始めました。
ーースクールは順調に生徒数も増やしていったのですか?
有田:当時は1ヶ月無料キャンペーンなどで生徒を増やしていたので、利益はほとんどなかったね。手伝ってくれたメンバーと利益は折半して、少しずつスクール生を増やしていきました。
別のフットサルチームの代表もよくしてくれていて、週に1回コートを貸してくれたり。「サッカーでお金取るなんて」と批判されることも多かったですが、周りの人の支えや協力あって、順調に進んでいったと思います。
あなたが未来に残したいものは?
「やりたいことに真っ直ぐに」有田さんがこれまで体現してきたからこそ、子どもたちも全力でサッカーを楽しめているのだと感じます。
FSCのこれからの展望と、有田さんの未来への想いをうかがいます。
ーー今後の展望を教えて下さい。
有田:サッカースクールはこれからもずっと続けていくこと、ですね。
自分が今後どこまで関われるかどうかわからないけど、子どもたちと一緒に楽しむ時間を大事にしたいです。自分が関われなくなっても、FSCが残るようにバトンを繋いでいきます。
ーー有田さん自身の展望はありますか?
有田:「あと1年後に死ぬとしたらどうする?」って自分に投げかけたことがあって。その時に思ったのが「サッカーが上手くなりたい」と「お世話になった人に挨拶したい」ということでした。
うちのスクールのビジョンは「関わる全ての人が幸せになること」です。サッカースクールをやっている上で仲間は必要です。仲間がいないと寂しいじゃないですか。
みんなが幸せになるために、コーチやOBの人たちの仲間同士の繋がりを持ち続けていきたいです。
ーー最後に、有田さんが未来に残したいものは何ですか?
有田:みんなが楽しめる場です。
「楽しむだけじゃダメでしょ」と言われることもあるんですが、「楽しむ」って結構奥が深いんですよ。
僕が人生を追求し続けてたどり着いたのは、「本気で楽しむこと」が人生をハッピーにさせるということ。
辛いことも苦しいことも嫌なこともたくさんある世の中で、それ自体を楽しめるようになったらハッピーになることは間違いない。
だから、子どもたちには「楽しむ」ということがどういうことなのか、今のうちに知っておいてもらいたい。
大人になればなるほど、いろんな制限がかかってくると思うんです。
「これはやっちゃいけない」
「周りが変な目で見るんじゃないか」
でも、道は真ん中を歩かなくていい。制限をなくして、子どもたちが心の底から楽しめる場所をつくって、残していきたいです。
有田 正宏 ありた まさひろ (FSCサッカースクール代表兼コーチ)
昭和40年生まれ、愛媛県出身。小学4年生からサッカーをはじめ、学生時代は群馬国体から全国大会と様々なリーグ戦に出場する。22歳で日立製作所サッカー部(現 柏レイソル)に所属し、25歳でアメリカ・ロサンゼルスの高校でサッカー指導にあたる。その翌年に都内企業のサッカーチームにて指導者兼プレーヤーとして活動し、1995年からFC府中アンダー15のコーチとして専属した後に2003年4月より、FC府中サッカースクールを開校し、現在はFSCサッカースクールに改名し活動中。保有資格は、日本サッカー協会公認B級コーチ、イングランドサッカー協会公認レベル1コーチ、中学・高校体育教員免許。
■FSC公式サイト:https://fscschool.com/
■公式SNS:Facebook / Instagram
FSCサッカースクールは現在(23年3月10日〜)クラウドファンディングを実施中!子どもたちがもっと楽しめる場をつくるため、サポーターズクラブを立ち上げます!有田さんの熱い想いが子どもたちの未来につながることでしょう。みなさんもチェックしてみてください!