伝統が息づく栗山。姿を変えて残り続ける「千瓢彫」

執筆:田村優奈 写真:葉山月飛


北海道栗山町に木彫工房ナカハラのアトリエをかまえる木彫り作家の中原篤さん。中原さんは栗山町発祥の木彫『千瓢彫(せんぴょうぼり)』の4代目伝承者です。

アトリエを覗くと様々な動物をモチーフにした木彫や彫刻道具の数々が並んでいました。その中でも一段と目を引くのは鋭い眼光でこちらを見ている木彫のシマフクロウ。

生命さえ感じるそのフクロウの作品に込められた想いとは。

北海道の伝統と発展を見届けてきた中原さんにお話を聞いてきました。

目次

シマフクロウを世界へ

ーー木彫り作家になったきっかけを教えてください。

かつて木彫りは農家がやるものでした。農民工芸家と言って、農業の閑散期に趣味で作っている人がほとんどで、私や父も最初は趣味程度で始めたもの。

農業以外の人も作品は作っていたと思うけどね、私たちは農家をしながら「千瓢彫」という技術を受け継ぎました。

千瓢彫は私の先生だった本田数馬翁が生み出したもの。本人が2代目、うちの親父が3代目、そして私が4代目と引き継いでいる技術です。

私が20歳の頃、親父と先生のところに通って木彫りの技術を習得しました。初めは農民工芸家として、農家をしながら冬の農閑期に木彫りをする程度でほとんど趣味だったね。

当時の木彫りはアイヌ文化の影響を受けて鮭や熊が主流だった。熊の木彫りはアイヌの人々にとってお守りや伝統行事で必要なものだったし、鮭の木彫りを飾る家は栄えると言われていてね。昔のアイヌの狩猟民族は貯蔵方法がないから捕れた鮭を乾物にするために外に干すことが多かったから、干してる鮭が多いほど家は栄えていると考えられていたんだ。要するに鮭は富の象徴だったんだよ。だから家を建てたときは、どの家も必ず鮭の木彫りを置いていました。そんな風潮があったので、鮭の木彫りを作っていた親父の代の頃は、5年先まで注文が埋まってましたよ。

鮭や熊を彫る職人が増えていく中で、私は平成元年に北海道で初めてシマフクロウの木彫りを作った。そのシマフクロウの木彫りが北海道で一位を獲って、プロとして活動を始めたんだ。

ーーなぜシマフクロウをモチーフにしようと思ったんでしょうか?

かつて飛ぶように売れていた熊の木彫りがどんどん売れなくなっちゃったんだ。要するに北海道の観光や工芸分野もどんどん多様化していって、1つ2つのモチーフだけではやっていけなくなったのかな。700人くらいいた熊の木彫り職人もだんだん減っていって、もう鮭や熊の時代じゃないと感じてたんだよね。

シマフクロウをモチーフにしたのは新聞記事がきっかけでした。昭和62年ごろにシマフクロウが道東で5羽見つかったという記事を見たんだよ。「北海道にこんな鳥がいるんだ」と思った。すぐに新聞社に問い合わせて、シマフクロウを飼育している上野動物園まで行って、写真を撮ってデザインしたものが北海道でとても評価をいただきました。

北海道観光業界全体が「シマフクロウの作品はいけるぞ!」と思ったんだろうね。

そこで道内の陶芸家や画家を集めた7.8人で『フクロウの会』を立ち上げて、シマフクロウと環境問題を結びつけたキャンペーン活動をやりました。「自然と共生して公害のない北海道」、「フクロウの棲めるところが人間の住めるところ」とうたって、北海道の魅力を伝えた。

ものづくりをする人は自分の作品が認められるのを黙って待っている人が多い。でも農家の人たちだと「うちのジャガイモは日本一だ」と自信をもって言うでしょ。だから私たちも言ってみようかなと思ったんだよ。

「私達の作ったフクロウは世界一です」って。

フクロウは世界中にいる。だから“日本”の北海道ではなくて“世界”の北海道としてアピールした方がいいんじゃないかと。木彫りも含めて北海道はこんなにいいところなんだぞと世界中の人に知ってもらい、北海道に住んでもらいたいという想いで活動していました。

現代が求める工芸家の二面性

ーー現在、伝統工芸は後継者不足や価値観の変化が課題とされています。

北海道の工芸品のこれからについてはどうお考えですか?

北海道観光が盛んだった頃は、好きなものを作ることで生計を立てていた人が沢山いたのに、今はもうほとんどいない。さらにコロナが追い打ちをかけて観光業界全体が冷え切っているでしょ。だから工芸家も減る一方です。

最近は物を整理するという文化が定着しつつある。ちゃんと整理した方が綺麗で広く見える。昔なら床の間のように「物を置くための場所」が家にはあったけど、今はあまりないのかな。車も家もいらないという時代だから、「置物」を置く文化がない。大きいものはもってのほか。なるべく小さいものを身近な場所に置いて眺めるというのが今のインテリアみたいだよ。

それでも私は、この世界に1人だけでも私の作品に興味を持ってもらえれば食っていけると思ってやってるんだ。

今は個展の準備をしているんだけど、見せるもの、売るもの、奉仕するものの3種類に分けて作品を作っています。見せるものっていうのは写真を撮って、誰かに見せたり、何かに載せたりする人が増えてるでしょ。そのための作品が増えてるね。今は一番情報が重視されているから。

アーティストはものづくりや展覧会に集中している人が多いけど、私がずっと目指していたのは「1人5芸」。1人1芸では足りない。アーティストだけじゃなく、エンターテイメントの分野にも自ら着手して、売り込みや広報活動をやるべきだと思ってます。

ーー栗山町には20代30代のアーティストを志す人が増えているようですが、その方たちに向けて中原さんから伝えたいメッセージやアドバイスはありますか?

私の昔の彫刻仲間が出前講座で大学生に工芸を教えているんだけど、女の子の学生さんが「熊彫りを習いたい」と言ってきたみたいなんだよ。そうしたら今の学生は10人がそれぞれ違う10パターンの熊を作るんだってね。

昔は北海道の熊と言われたら、鮭を咥えた四つん這いの熊を想像する人が多かった。だけど今の人は自由な発想で作ると聞いて、すごい驚いたね。

最近は観光業界でも昔とは違う発想から生み出された形のフクロウやクマが出てきているみたい。昔は、違いといえば大きさだけだったけど、表情が違う様々なバリエーションのフクロウを作ったら凛々しい顔のフクロウが一番人気だったこともあったよ。

伝統工芸の中には衰退してしまうものも多いけど、独自の発想や工夫を加えることで売れ続けていくことがある。開拓されていない分野はどこか、一般にも知れ渡っている分野はどこかと、私も仲間たちと分析してきました。

発想の転換と想像力。時代が何を好んで何を求めているのかを最初に発見した人が強いよね。

<h2>好きが行き交う栗山、変化する伝統<h2>

ーー中原さんにとって栗山町はどんな町ですか?

栗山町は自分の好きと向き合って挑戦する町。

栗山はカラオケが盛んなんだけど、それは歌が好きな人がいて、町全体が影響を受けて盛んになった。畑やものづくりも同じでやっぱり「好き」でやってる人には敵わないなと思う。

最近は農家を辞める人が増えて、住む人がいなくなって農地だけが余っている。

だから以前に工芸村をつくったらどうかと町に提案したこともある。札幌圏の人が訪れて、一日楽しめる町、滞在したくなる町になるように何度も触れたくなる文化や施設が栗山には必要だと思っている。

ーー『好きと向き合って挑戦する町』改めて素敵な町だと感じました。

最後になりますが、中原さんが未来に残し続けたいものは?

昔は流行っていたけど今は流行っていないものが沢山あるよね。流行らせ続けるというのは難しい。私は伝統を引き継いでいるけれど、その時代に合わせて形は少しずつ変えている。だけど全てを変えてしまうと誰にも見向きされなくなってしまうので、そこは加減が必要。

大衆が求めるものは何か、自分だからこそ、できることは何か。

1人で考えていると限られた情報や時間の中で選んでいくことになる。だから常に仲間をつくって沢山の情報から分析をしてきました。

だけどね、試行錯誤しながらだけど結局は「好きなことをやってる」に行き着くかもしれない。好きなことをやってるから努力し続けられるんだよ。

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